小説
『夏の幻』睡蓮、外伝
『夏の幻』睡蓮、外伝
代沢稲荷近くにかつて井の頭線池ノ上駅の駅名の由来となった池がありました。作家横光利一の『睡蓮』はこの池から着想したと言われています。『夏の幻』はこの地を舞台とした百年程前の激動の時代を生きた人々の物語です。
昭和二年 大暑④〜蜩
雨がすっかり上がり、西の空が橙色に染まりつつあった。空から光の束が幾十にも重なり水面に降りていた。水面が黄金のように煌めいていた。
二人は小屋を出て、落雷した巨樹に近づいていった。煙は消えていたが、周辺には木の焼け焦げたにおいが漂っていた。
巨樹は椎で、斧で真上から振り下ろしたようにほぼ真っ二つに裂けていた。
「この木の団栗の殻を取って、白い実を炒って食べると香ばしくて美味しいんです」と朔之介は消えるような声で言った。
「もう実は付かないだろうな」
と横光は言った。
「ここには櫟や小楢はたくさんあるんですけど、椎の木はこれ一本です」
「一番大きな木に落ちたということだね」
「そうですね」
「きみが登っていた松も大きな木だが落ちなかったね」
「あの松はこの池を守る御神木だそうです。だから、落ちなかったんだと思います」
間をおいて朔之介が口を開いた。
「そろそろ帰ります」
「そうなのか?」と少し驚いたような表情で言った。
「父に薬を飲まさないといけません。」
「父上は病気なのか?」
静かに首を振りながら朔之介は答えた。
「身体が細くて弱いのです。それなのにお酒をずっと飲んでいるのです」
「そうなのか、どんな薬を飲ませている?」
「捕まえた鼈と蝮を粉末にして飲ませています」
「蝮を捕まえられるのか?」
と目を見開いて聞き返した。
「茂みにいることがあります」
と池のほとりにある茂みを指さして言った。朔之介の背丈よりも高い二メートル近い芒が雑木林まで続いていた、
「咬まれたら大変だ」
「大丈夫です。捕まえ方は簡単です」
「母上は父上に何か薬をあげていないのかい?」
「母は『そんなものは効かない。虫が父の身体の中にすんでいる』と言っています」
二人が話をしていると、
「朔之介さん」
と二人の後ろから声がした。振り向くと朔之介と同じぐらいの年齢の少女が傘を二本持って立っていた。
「あ、琴ちゃん」
色白の瓜実顔で、おかっぱ頭の下にある目がくりくりとし動き愛嬌を感じさせた。
「雨が凄かったので傘をお持ちしました」
「ありがとう」
「でも、止んでしまいましたね」
と笑った。
「どうしてここにいるってわかったのです?」
「釣り竿がありませんものですからこちらかと」
藍色に朝顔の絵柄が入った浴衣の肩は雨で濡れていた。
横光は二人の会話を黙ったまま聞いていた。
「こちらは横光利一さん」
と朔之介は横光を少女に紹介した。
「初めまして」と横光を見て、頭を下げた。
「妹さんかな」
朔之介は一瞬躊躇してから、
「いえ、うちで働いている女中さんの娘さんです」と
目線を外して答えた。
「そうか、横光です」とあらためて名前を名乗って軽く会釈した。
「渋川琴と申します」
サッと頭をやや傾けて言葉を返した。
横光は着物の袂から懐中時計を出すと、目を大きく開けて時計の針を見た。
「そろそろおいとまするとするか」
と言い、時計を袂に戻した。
「本当にいいのかい?」
と鮒とくちぼそが 泳ぐバケツを手に持った。
「もちろんです」
魚は釣り上げたばかりのときと同じようにバケツの中で円を描くようにぐるぐると回っていた。
「これはここに戻しておけばいいかな?」
とバケツに目線を向けて言った。
「渋谷から来ましたか? 下北沢からですか?」朔之介がそう質問すると、
「下北沢の駅から来た」
と横光は間髪を入れずに答えた。
「そうですか、ここに来る前に坂を上がったところに赤い鳥居のある家があるんですが、そこに返しておいていただけますか」
「ありがたい、それは助かる。そういえばそのような家があった気がする」
横光は記憶を辿りながら答えた。
「そこは朔之介くんの家かい?」
「はい、そうです。誰かしら家の者がいると思いますので、渡しておいてください」
「わかった」
そう言うとバケツを手に持ち、
「それでは、失礼する。いろいろとありがとう、感謝するよ」
とお辞儀をして池のほとりを離れ、側道に出た。
「おもしろそうな方ですね」
と琴は去っていく横光の背を見ながら言った。
「すごい人と知り合いになれた気がするよ。でも、釣りは初めてというので色々と教えてあげたんだ」
とちゃめっ気たっぷりに笑った。
二人はそのまま家路に向かった。蜩のカナカナという鳴き声が雑木林から沸き立って、橙色に染まる池の水面に響き渡っていた。