吒枳尼眞天とは

名店に捧ぐ、神様カレー

文・水野仁輔

 あのシェフは、突然インドへ帰った。1週間前に「帰ることにした」と言って姿を消し、もう1年が経過したという。久しぶりに訪れた「コチンニヴァース」でオーナーが教えてくれた。「もう72歳ですから思うところがあったのかも」と微笑んだ。

 西新宿にある南インド料理店。シェフの名はラメシュ。の作る料理は鮮烈だった。広くない店内とはいえ、調理中に客全員がむせるほど鮮烈な香りを放つ。それでいて洗練され味わいきっと凡人には理解し難い超絶技巧を駆使しているはずなのだが、調理場のラメシュは常にすました顔を崩さなかった。

 取材させてもらうと、ひとつひとつの作業が非常に繊細で丁寧。しかも「そこでそれをやるの?」みたいな調理が随所に現れ。例えば加熱中の鍋中をミキサーで回してから漉して舌触りを滑らかにするなどの手法が、自分の辞書にはないタイミングで登場したりして、「はー」と何度かため息が出た

 目の前には人気メニューのキーマがある。パラッとしたライスにしっとりしたチキンキーマ、とろりとした目玉焼き。シェフはいつもオーセンティックな料理に独自のクリエイションを吹き込んで

 あっという間に食べ終わり、直後におかわりしたくなる。シェフはいないけれど、シェフがそこにいることを確認できるひと皿だった。「現地に行けば会えますかね?」「水野さんが行ったらすごく喜ぶと思いますオーナーは自分のことのように嬉しそうに言ってまた微笑んだ

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