吒枳尼眞天とは

心に響く名言・格言

代沢稲荷|宮守 阿川峰哉

禿かむろなるさだんで禿かむろなるにあらず。はるうときは、すなわさかえはなさく

弘法大師『秘蔵宝鑰』より


外に出て木々を見ると、少しずつ芽吹きを感じられる季節になってきました。

枝だけに見えていた木にやわらかな気配が宿り、春が静かに近づいていることを教えてくれます。桜の開花も、もうすぐです。

芽吹きの光景には、毎年どこか特別なものがあります。

冬のあいだは、ただ寒さに耐えているように見えた木々が、時が来ると、何事もなかったかのようにふたたび命の勢いをあらわしてくる。その姿を見ると、自然はちゃんと次の季節を知っているのだと感じます。

弘法大師の

「禿なる樹、定んで禿なるに非ず」

という言葉も、まさにそのことを語っているのでしょう。

今は葉を落とし、枯れたように見える木も、それで終わりなのではない。春に遇えば、再び栄え、花を咲かせる。目の前の姿だけで、その木のすべてを決めてはいけない。そんなまなざしが、この言葉にはあります。

では、弘法大師はなぜこうした言葉を残したのでしょうか。

それはきっと、人もまた同じだからだと思います。

私たちは、うまくいかない時期があると、自分はもう駄目なのではないか、このまま変われないのではないかと思ってしまいます。けれど弘法大師は、そうした一時の姿だけで人を決めつけるな、と伝えたかったのではないでしょうか。冬枯れに見える時期にも、次に芽吹く力は失われていない。花が咲かない時間も、咲くための時間なのだと。

日本では古くから、神さまと仏さまは人びとの祈りの中で、ともに敬われてきました。

神仏習合の世界では、自然のいのちにふれながら祈る心と、仏の教えに照らして自分を見つめる心とが、どこかでひとつにつながっています。芽吹く木々を見て季節のめぐりに心を動かされることも、そうした祈りの感覚と無縁ではないように思います。

芽吹きには、特別の何かがあります。

それは単に春が来たというだけではなく、いのちがもう一度はじまる光景だからかもしれません。

そして大切なのは、この芽吹きの光景を忘れないことなのでしょう。

木々は毎年、同じように見えて、毎年あたらしく芽吹きます。人の人生も同じです。

一度だけではなく、人生のなかで芽吹きは何度も訪れる。新しく始めることも、立て直すことも、もう一度咲くことも、本当は何度でもできるはずです。

まわりに春の気配が満ちていても、自分だけはまだ冬の中にいるように感じる日もあるかもしれません。

けれど、芽吹きの季節は人それぞれです。

今はまだ枝だけに見えていても、その奥では、次の春の準備が進んでいるのかもしれません。

木々の芽吹きを見つめながら、

自分にもまた咲く時が来ることを、静かに信じてみたいと思います。

 

 

【人物紹介】

弘法大師空海(こうぼうだいし・くうかい)は、平安時代前期の僧で、真言宗の開祖として知られています。唐に渡って密教を学び、日本に新たな仏教文化をもたらし、高野山を開きました。教学・芸術・書など多方面に大きな足跡を残し、日本の精神文化に深い影響を与えた人物です。日本では、神と仏が対立するものではなく、ともに人びとの祈りを支えるものとして受けとめられてきました。そうした神仏習合の信仰世界にも通じる存在として、空海は今もなお宗派をこえて広く親しまれています。

 

 

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