小説
『夏の幻』睡蓮、外伝
『夏の幻』睡蓮、外伝
朔之介は目を覚ますと、浴衣が汗でぐっしょりと濡れているのに気づいた。身体の冷えが抜けないまま寝たはずなのに、不思議なほど深く眠っていた。
天井を見つめていると、昨夜の光景がじわりと戻ってくる。
屋敷に戻ったとき、普段は落としてある廊下の電灯まで灯され、白い光が昼のように床を洗っていた二人がいないことに気づいて、屋敷は騒然としていた。澄が濡れた琴に目をみはり、思わず声を上げた。そこまでは覚えている。けれどその先は、水風呂で苔のついた身体を洗った、ひどくぼんやりした感触だけだ。
蚊帳を抜け、障子をあけた。朝の陽光が中庭に差し込み、昨日の夜が嘘みたいに庭石の輪郭を浮かび上がらせていた。
サンダルをつっかけて庭に出ると、赤松にキビタキが止まっている。黒と黄のはっきりした衣。ピロリ、ピッコロリと転がすようにさえずり、澄んだひと声のたびに首をかしげた。
赤い鳥居のほうへ目をやると、お社で拝んでいる琴の後ろ姿が見えた。
お社は樫木家の邸内社だった。三百年前、長門国からこの地に移り住んだ一族が、最初に建てたものだという。朔之介は由来をよく知らなかったが、父は毎朝欠かさず拝んでいた。
鳥居の脇の陰から、犬が音もなく現れた。柴系の雑種で、赤茶の毛に黒い差し毛が混じっている。鼻先に小さな傷があり、尻尾の先だけが白い。柴犬ほど小さくはなく、秋田ほど大きくもない。
「ゴン」
朔之介が名を呼ぶと、ゴンは待っていたみたいに尻尾を振り、短く喉を鳴らした。駆け寄ってくる‥‥ほどではない。だが、朔之介の足元に鼻先を寄せ、濡れた草の匂いを確かめるように一度だけ嗅いだ。朔之介が膝を折って首筋を撫でると、ゴンは目を細め、肩をほんの少し預けた。
そのまま琴のほうへ視線を戻す。尻尾はまだ揺れているのに、耳だけは番の形に立っていた。
琴は神前にお辞儀をして振り返り、朔之介を見つけると、ふっと微笑んだ。
「お稲荷さんに、昨夜のお礼をしておきました」
「僕も拝んでおくよ」
手水鉢で手を清め、朔之介は神前に頭を下げた。
ナム‥‥。
続きが、出てこない。あとで父に聞こうと思った。父は毎日欠かさないのに、朔之介は節目だけだ。
「昨日はごめん」
軽く頭を下げると、琴は微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
「どこに行くのですか?」
「池のほうへ。ゴンと散歩してくるよ」
ゴンを連れて庭を抜けると、石段の下に池が広がっていた。
ゴンはうれしそうに尻尾を振りながら、朔之介の前を駆け下りていく。
池は朝日を受けて輝いていた。白い睡蓮の花が光を放っている。
昨日の出来事が嘘のように、いつもと変わらぬのんびりとした時間が流れていた。逆光の中に釣り糸を垂らす二人の少年の姿があった。
朔之介の姿をみつけると、ひとりが手を振った。朔之介の親友で近くの駄菓子屋の次男坊、正太郎、しょうちゃんだった。もうひとりは軍人の息子で輝雄、てるちゃんと呼ばれていた。朔之介より二つ上だ。
しょうちゃんは同級生、てるちゃんはこの春、尋常小学校を卒業して中学へ上がったばかりだった。ワイシャツに学生服のズボン姿で、言葉づかいだけが少し早く大人びていた。学生帽の跡が額にうっすら残っていて、目だけが妙に落ち着いて見えた。
「なかなか難しいね。このまえは釣れたんだけどね」
朔之介が二人に昨夜の話をすると、
「それ、河童だあ」としょうちゃんが腹を押さえて、ゲラゲラと笑った。
「今度捕まえて、食っちまおう」
と口を大きく開けて、パクッと閉じた。
朔之介は苦笑いした。
「あの木に登ってみてみると、いいよ」
と朔之介は池の真ん中にかかっている赤松を指差した。
朔之介がするすると赤松を登って行くと、二人はそれに続いた。
「ほら、あそこだ。揺れてるだろ」
輝雄は声を潜めて指さす。その指の先、睡蓮の葉の影に、時折ゆらりと大きな黒い影が差した。
「本当だ、でかいな」
「いや、主かもしれないぞ。河童じゃないか」としょうちゃんが茶化すと、輝雄は膝を抱え直して、真顔で見続けた。
三人は松を降りると、木箱を置いて、釣り竿を垂らした。なかなかウキは沈まない。
時間が流れていた。
夏の強烈な光の中に、バケツを提げた男が、どこからともなくひょろりと姿を現した。
「あっ」と思わず声がもれた。
肩が落ち、頬がこけている。着物の上からでも骨ばった輪郭がわかる。よたよたと頼りない足取りで歩いてくる。樫木裕一郎だった。バケツの水が、歩みに合わせて小さく波立ち、溢れた。
裕一郎は朔之介の姿をみつけると、近づいてきた。息を一つ吐いてから、短く言った。
「おまえも手伝え」
竿を置く。
「さくちゃんのとっさん、久しぶりにみたな」
としょうちゃんがクッククっと笑いを堪えて手を口に当てた。
トタンの小屋の扉を開けると、金具がきしんだ。
差し出されたのは、手のひらにざらりと絡む麻縄だった。朔之介が受け取ると、縄のささくれが指先に刺さる。父の手は、それよりもずっと荒れ、節くれ立っていた。
荷は、睡蓮の鉢と、藁でくるんだ根茎、それらを収める木箱。北区の飛鳥山にある渋沢栄一の旧邸からの注文だった。
木箱には、父の筆跡で宛名が書かれている。字は崩れていない。むしろ普段より硬く、端正だった。線がまっすぐで、余白が詰められている。書く手は細くなっても、字だけが、家の格のように残っている。
朔之介は黙って縄を回した。
父は同じように黙っている。二人の間にあるのは会話ではなく、作業の呼吸だった。
「渋沢さんって?」
朔之介が問うと、裕一郎は視線を落としたまま、手の動きだけを速めた。
「渋沢栄一だ。日本一の商人だ。母さんの縁も、その人の口添えだ」
父はそれ以上語らず、縄を締めた。
「もう一回、回せ」
朔之介は黙って縄を回した。汗が手首を伝い、縄に吸われていく。結び目が締まり、木箱が静かになる。
鉢を入れた箱を小屋の外に持ち出すと、ブォォォン…という遠い音が聞こえた。やがて次第に大きくなり、重低音が空を震わせた。乙式一型偵察機だった。
しょうちゃんが先に空を指差した。「ひこーき!」
輝雄は黙ったまま、複雑な眼差しで空を見上げている。
ぎらつく真夏の太陽を背負い、巨大な鉄の塊が雑木林の上空を飛び去っていく。その圧倒的な質量に、ゴンも身を竦めた。
「立川か、所沢か……」
裕一郎が呟き、眩しそうに目を細めた。
「時代も変わるな」
輝雄は、機体が去ったあとの空を、何かに憑かれたような眼差しで見つめている。朔之介は、機体ではなく、その後ろに伸びる白い筋を見つめていた。まっすぐな一本の線が、青い空を引き裂いて、やがて霞んで消えていった。






