小説
『夏の幻』睡蓮、外伝
『夏の幻』睡蓮、外伝
代沢稲荷近くにかつて井の頭線池ノ上駅の駅名の由来となった池がありました。作家横光利一の『睡蓮』はこの池から着想したと言われています。『夏の幻』はこの地を舞台とした百年程前の激動の時代を生きた人々の物語です。
第一章
昭和二年 大暑
柔らかな虹色の陽光が、俄雨が上がったばかりの池を優しく包み込んでいた。水面には乳白色のカップ咲きの睡蓮の花たちがそよぐ風を受けてこと静かに揺れ、切れ込みの入った無数の円形の葉が光の粒をこぼしながら広がっていた。池の幅はおよそ十メートル、長さは三十メートルほどで北から南へ緩やかなカーブを描き、陽光の帯を伴ってのびていた。池の中央には水面から顔を出した二メートル四方のゴツゴツとした茶褐色の大きな溶岩石があり、数匹の石亀が体を寄り添って甲羅干しをしていた。水面は薄緑色に濁っていたが、浅瀬は底土が見えた。ミナミメダカやオタマジャクシの群れ、ときにゲンゴロウの黒い姿や赤褐色のミナミヌマエビがさっと現れては消えていた。
朔之介は池の中央にせり出す赤松の大木に吹き出す額の汗を指先で拭いながらよじ登っていた。太い幹を両手で抱き抱えながらゆっくりと両足を上手く使い上へ上へと進んでいった。亀甲状の樹皮に指先を入れて、水面を覗き見ると、細長い池が翡翠色の勾玉のような丸みをもって見えた。不思議なことに睡蓮の花が咲き、雨の降った後はいつもそう見えた。
強烈な陽光の中、蝉時雨が降り注いでいた。麦藁帽子の下には朔之介の小麦色に日焼けした丸顔があった。白のランニングシャツ、黒の半ズボンには松の樹皮の細かい屑がついていた。時折、その樹皮を払い落としながら、じっと水面を睨みつけていた。睡蓮の葉と葉の間を動く魚影を見つけた。鮒が三匹、群れをつくり水面に背鰭をのぞかしながらゆっくりと泳いでいた。魚たちの動きに合わせて水面は寒天のようにゆらゆらと揺れ、太い三本線を描いていた。
朔之介は上向きのまま赤松をするすると降り、魚影が見えた北側の縁に竿を持って走った。ビール瓶の広告の絵柄が描かれている木箱に腰を下ろすと、鮒を狙って釣り糸を水面に垂らした。針が水面に広がる睡蓮の葉に当たらないように投げ入れるのがポイントだった。木箱は風雨にさらされ腐りかけていて、先程の雨で土がぬかるんでさらに安定感を失っていた。少しでも体のバランスを崩すと木箱の骨組みがぐらついた。
朔之介は、漆塗りの橙色のウキが沈む瞬間をじっと待っていたが、水面を撫でるように吹く風で微かに揺れているだけだった。この池の鮒は自然の状態に戻り警戒心が強くなっていて、釣るのは難しかった。それでもいつも誰かしらが釣果を期待してこの池に釣り糸を垂らしていた。朔之介もまたしかりで放課後や休日になるとここを訪れていた。
この日は朔之介が初めて見る男が木箱に座っていた。二十代後半だろうか。中肉中背でパナマ帽を被り、大島紬の着物を着ていた。帽子の下の額には大粒の汗が浮いていた。ぎこちない動作で、餌を何度もつけては、竿を振り釣り糸を投げこんでいた。
朔之介はその滑稽な動きにみかねて、竿を置き男に近寄った。男は近づいてきた朔之介の姿を怪訝そうな表情で見た。
「釣りをするのは初めてですか」
と声をかけた。
「そうだ。きみよくわかるな」
「わかります」
ときっぱりと応えて、笑みを浮べた。
「教えてあげましょうか」
「それは助かる。お願いしたい」
と男は躊躇することなく竿を朔之介に手渡した。
朔之介は男に竿の持ち方、ウキの付け方、位置、餌の付け方などを丁寧に説明した。
「この餌はなんですか?」
と団子状の餌を手に取って言った。指先で餌を摘むとパラパラと溢れ落ちた。
「この池を教えてくれた魚屋にもらった。泥鰌と鯰を潰して団子にしたものらしい」
「これだと水の中ですぐに粉々になってしまいますね」
「私もそう思っていたところだ」
と妙に自信たっぷりに答えた。
聞くところによると、男には病身の妻がいて、鮒が泳ぐ姿が見たいと言われていた。鮒を探していたのだが、なかなか手に入れることができずにいたところ近所の魚屋がこの池に鮒がいるので釣ってくるのがいいと勧められたそうだ。
朔之介はもってきた餌のうどんをおいた。
「もしよかったら、この餌を使ってください。大阪あたりでは鮒釣りにはうどんを餌に使うそうです」
朔之介は大阪から来た父親の客人から鮒釣りにはうどんがいいという話を聞いてからはずっとそれを使っていた。
それまでは赤虫を使っていたが、うどんに切り替えてからあたりがかなりくるようになった。そして何より生き餌は針に通すときにいい気分がしなかった。がんばってくださいと言うと、座っていた木箱に戻り腰を下ろした。
時間だけが過ぎていった。あたりがこないのか、気がつくと、男は竿を持ったまま船を漕いでいた。木箱がぐらつくと目を覚ました。長い冠羽をつけた真っ白な小鷺が何の警戒心も抱かずに男の目の前で長いクチバシを何度も水の中に刺して獲物をとっていた。
強烈な太陽の光が水面に照りつけている。朔之介のウキが水面からストンと沈んだ。釣り糸を思いっきり引くとググっと強い引きが右腕に走った。鮒の頭がみえた。竿が大きくしなった。水面に頭の半分が上がり、細波を立たせながら右へ左へと動いた。思いっきり力を入れて、引くと水面から全身が現れた。黒褐色の鱗が陽光を浴びてキラキラと光った。釣り上げると、引きの強さからは考えられないくらいの握り拳大の小さな鮒だった。この小さい身体のどこにあれだけの力があったのかと思い、滑りのある魚体を掴むと口に引っかかっている針を抜いた。