吒枳尼眞天とは

小説
『夏の幻』睡蓮、外伝

作・宮守芳斉

代沢稲荷近くにかつて井の頭線池ノ上駅の駅名の由来となった池がありました。作家横光利一の『睡蓮』はこの池から着想したと言われています。『夏の幻』はこの地を舞台とした百年程前の激動の時代を生きた人々の物語です。


昭和二年 大暑③〜

 

 

 

 「飲みますか」と、朔之介は棚からガラスのコップを取り出して、井戸のポンプの前に行った。ハンドルを上下させ、蛇口から出た井戸水をコップに入れ、作業台の上に置いた。男は礼を言うとコップを手に取り、麒麟の絵柄をちらっと見て、ゴクゴクと水を飲み干した。ふぅと息を吐くと、外を見た。

 池の水面が上昇し、たらいから水が溢れるように流れて出ていた。この池は少しだけ地面より高く作られているようだった。

 「池を作ったときに溢れた水をどこに流すのかを設計しなかったので、大雨のときは地面に水がたまってぐちゃぐちゃになって大変なことになります」

 と朔之介が説明すると、男は黙ったまま頷いた。

 空がまた光った。むろの中を光の帯が走った。

 朔之介が「いち、にい、さん、しい、ご」と数えるとゴロゴロと雷鳴がした。

「雷、少し離れましたね」

 雨脚も心なしか弱まってきているように感じた。

「そうだな。それにしても凄かった。雷が落ちるところを初めて見たよ」

 「僕もです」と朔之介は応えた。

 「見ましたよね?」と間をおいて、落雷で半分に割れた樹木を指差して、男に切り出した。

「ああ、見たよ」と男は答えた。

「なんだったんでしょうか?」

 朔之介は棚に置いてあった画集を持ってきた。

「この絵に似ていませんか?」

 と、表紙の砂埃を手でサッと払って本を開いて男に見せた。

 退色して黄ばんだ紙には風袋から風を吹き出し風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神が描かれていた。その絵の下には国宝『風神雷神図屏風』俵屋宗達筆と書かれていた。

「確かに似ているよ」

「あのとき、すぐにこの絵を思い出しました」。

 男は絵をじっと見つめて、しばらくして口を開いた。

「私もこの絵は好きだ。君もこの絵を見たことがある。ということは、きみの意識と僕の意識にこの絵があって、あの落雷を見て、犬や猫、あるいはむじながこの風神、雷神に見えたと考えられないか?」

 朔之介は男の言わんとすることを理解しようと努めた。意識という言葉を反芻した。

「ごめん、少し君には難しいかもしれないね」

「いいえ、なんとなくですが、おっしゃりたいことはわかります」

「でも、あんな落雷のすぐ後に割れた木に駆け寄っていく動物がいますか?」

 男は静かに首を振った。

 しばらくじっと考えた後、口を開いた。

「株元に狢の穴蔵があって、落雷で驚いてそこから出てきたということも考えられる」

 朔之介はその場面を想起したが、狢とはずいぶん違うと思った。

 「もう少し大きくなったらユングやフロイトを勉強するといい。心理学という学問だ」

 納得のいかない朔之介の顔を見て男は言った。朔之介はフロイト、ユングという言葉に新鮮な響きを覚えたが、男の説明を聞いても腑に落ちなかった。

 ただ、この男の名前を聞いておいた方がいいと思った。

「お名前をお聞きしてよろしいでしょうか」

「失礼、まだ名乗っていなかったな」

「横光、横光利一」とまず苗字を反復してから名前の”りいち”を強調し名乗った。

「きみは?」

「樫木朔之介と申します」

「いい名前だ」

「おじさんのお名前もかっこいいです」

「ありがとう」

 と膨れ上がった髪に手を入れて笑った。

「なんだか作家みたいでかっこいいです」

 朔之介はそう言うと、人懐こい笑みを浮かべた。

「作家みたいか…」

 と大仰に笑った。

「まあ、いくつか作品は書いている」

「小説を書いているのですか」

 横光は黙ったまま頷いた。

 朔之介は驚いたように目を見開いた。読書好きの朔之介だったが横光利一の名は初めてきいた。

「本をよく読むのかい?」

「はい」

「最近は何を読んだかい?」

「『蜘蛛の糸』『杜子春』が好きです」

「いいものを読んでるね」

「芥川龍之介、お知り合いですか?」

「いろいろと意見を交換しているよ」

「そうなんですか」

「芥川さんは古の題材から今につながる作品を書く天才だ」

 朔之介の目は好奇心に溢れ輝いていた。

「横光さんは、どんな小説を書いているのですか?」

「『春は馬車に乗って』という作品を一月に刊行した、『女性』という雑誌の八月号に掲載したものだ。妻のことを書いた」

「鮒を飼いたいという方ですよね」

 横光は頷いた。

「本当に持って帰っていいのかい?」

 とバケツに目をやって言った。

「もちろんです。奥様、喜びますね」

 横光は、朔之介の言葉を聞くと一瞬寂しげな表情になり、黙ったまま首肯した。

 弱まっていた雨脚が再び激しくなり、トタンの屋根が再び激しく鳴り出した。

「そうだ歳を聞いていなかったな」

 横光はその音に負けないように声を絞って言った。

「尋常小学校の四年、来月で十歳になります」。

「まだ十歳なのか、先が楽しみだ」

 そう言うと、扉を開けて外に出た。

 雨が嘘のようにぴたりと止んでいた。静けさだけが池の周辺を支配していた。大きな水たまりがいくつもできていて、池の面積が広くなったように見えた。生き物が流れて出たのだろうか、水たまりには白鷺が集まって嘴を入れながら歩いていた。

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