小説
『夏の幻』睡蓮、外伝
『夏の幻』睡蓮、外伝
代沢稲荷近くにかつて井の頭線池ノ上駅の駅名の由来となった池がありました。作家横光利一の『睡蓮』はこの池から着想したと言われています。『夏の幻』はこの地を舞台とした百年程前の激動の時代を生きた人々の物語です。
昭和二年 大暑②〜風神、雷神
空はいつの間にか鉛色の厚い雲に覆われていた。雲が唸り、雷鳴が近づいていた。溶岩石の上でうたた寝をしていた一匹の石亀が眠りから覚め、目を見開くとバランスを崩し、水面にポチャンと岩から転げ落ちた。他の亀たちも次々と雪崩を打って落ちた。白鷺が水飛沫を飛ばして舞い上がった。
朔之介は釣り糸を俊敏な動きで竿に巻き付け、手に持って男に歩み寄った。
「これはまたきますね」と空を見上げて朔之介が言った。
「油断した。今日はもう降らないと思っていた」と男が言うやいなや大粒の雨が落ちてきた。乾きかけていた土に大きな雨跡が次々についていった。
「そこに行きましょう」と朔之介は池の南端にある掘立小屋を指差した。雨脚が強くなり、二人は小屋に向かって走った。
小屋は簡易なトタンで出来ており、ドアにはやや錆がかった銅色の大きな南京錠がかかっていた。朔之介はズボンのポケットから細長い鍵を取り出して、鍵穴に差し込み開錠した。中に入ると二十畳ほどの空間に大きな木製の作業台と椅子四脚が黒褐色の土間にあった。作業台の上には数冊の大学ノートが積み重なり、その横にはランタンが置かれていた。
雨が滝のような勢いで落ちてきて、トタンの屋根が壊れた打楽器のような激しい音をたてた。二人は大きな空き缶の中に入れられたかのようだった。トタンの壁には細長い幅二寸長さ一尺ほどの覗き穴がいくつも空いていて外の様子が見えた。「間一髪だったな」と池の水面に流れ落ちる雨を見ながら男は言った。
「一日に二度の大雨は珍しいです」と朔之介はその覗き穴に目を当てたままそう応えた。
雷鳴が間断なく激しく鳴り響くなか、男は着物についた水滴を手で振り落とした。パナマ帽もびっしょりと濡れていて、右手に持つと水滴を振い落とした。帽子をとると少し角髪結いを思わせる横に広がった髪が現れた。一体どのようになっているのか、よくわからない髪型だった。
「この髪型か?」と男は朔之介の不思議そうに頭をみつめる視線を感じて朔之介に言った。
「はい、そうです」と実直に応えた。
「これは私にもよくわからないのだよ」と言って口元を歪めて笑った。
「みんな不思議そうにみる。君と同じようにね」と髪に手を当てて言った。
「不思議な髪型ですが、かっこいいと思います」と朔之介が言うと、男は「そうか」と笑った。
「ところでこの小屋は?」と男は室全体を目で追って尋ねた。
「睡蓮や蓮を出荷するときに使っています」
「出荷?」
「父がここで睡蓮を育てて売っているのです」と朔之介は胸を張って言った。
朔之介の父、樫木裕一郎は、睡蓮と蓮の育種家だった。新品種が出るとこの池で育成し、趣味家から連絡を受けると出荷していた。品川にかつてあった妙華園から入手したマリアセア・カワセが特に人気でこの池で株分けをしたものをコレクターに出荷していた。オーナーの河瀬春太郎からは一株につき五十株までの株分を許されていたが、閉園になってからはその制約もなくなっていた。
男は花の萎んでしまった睡蓮の花が蕾となって揺れるのをじっと見ていた。
「まるでモネの『睡蓮』のようだったな」と男は数時間前の風景を回想して言った。
「モネはフランスの画家ですよね」
「よく知っているね」
「父はその絵を見て、この池を作ったと言っていました。」
「そういうことか」
と謎が解けたかのように言った。この光景を見ていると『睡蓮』を描いていたときのモネの気持ちがわかる気がしたのだ。
それにしてもこれだけの池を作り上げるとはどんな人物なのだろうか、と思い朔之介の父を想像した。
「父上に一度お会いしたい。ここに時々御姿を現すのかな?」と聞いた。
「父は病気がちなのであまりここには参りません」と朔之介は伏目がちに答えた。
床にアルミ製のバケツが置かれていた。男が歩み寄って覗き込むと朔之介の今日の釣果である1匹の鮒と数匹のくちぼそバケツの中でぐるぐると泳いでいた。
その姿を確かめると「これが鮒か」と言って、じっと見つめた。
「そうです。奥様に持って帰られますか」
朔之介はもし鮒が釣れたら、この男に渡そうと思っていた。
「いいのかい」と男は破顔して言った。
「金魚の祖先らしいね」
「そうなんですか」
「家内の話だと、金魚はこの鮒を改良したものらしい。家には金魚が二匹いるんだが、その金魚をみているうちに金魚の祖先の姿をみたくなったというわけさ」と言って、バケツに視線を戻したとき、耳を劈くような雷鳴がバキバキと轟き渡った。ピシーッという音が走り小屋全体が震えた。外を見ると巨樹が真っ二つに割れて、裂け目から白煙が黙々と上がっていった。
朔之介と男は思わずお互いの顔を見た。
「これはすごい」と男は口をヘの字にして言った。あまりの衝撃で体が震えていた。
「落ちましたね」と朔之介もやっと言葉を発した。。
雷雨に混じって霧のように広がっていく白煙を見ながら言った。視界が効かなくなった高山の山頂にいるようだった。しばらくその神秘的とも思える光景を見ていた。
再び、視線を裂けた木の割れ目に戻すと、何かが動いているように見えた。男が目を凝らしてみると、二つの影が見えた。まさか人か? 落雷の直後に人がいるはずはないと男は自分の目を疑った。一体は小太鼓がついた輪のようなものを背おっていて、もう一体は何か袋のようなものを背負っているように見えた。朔之介の目にも同じものが写っていたが、信じ難く言葉を失っていた。
しばらく間を置くと白煙が竜巻のようにくるくると渦を巻き出した。やがてそれは鉛色の空に向かって龍のように昇っていった。二つの人影はその渦の中に吸い込まれるように消えた。二人は顔を見合わせた。何かの錯覚に違いないと思った。一瞬の出来事だった。何も語らずにしばらく空から激しく降り注ぐ雨をただ見つめていた。