吒枳尼眞天とは

名店に捧ぐ、神様カレー

文・水野仁輔

 西新宿雑踏の先、店は喧騒。初めて『カフェハイチ』を訪れたのは、大学生時代活気に呑まれ都会を歩く緊張が店内も緩和されなかった。

 タバコの煙と暖色灯の温もり。店の空気が微かに濁って感じられたのは、記憶が薄れているからではなく煙と灯りが共存していたからろう

 そつないが、素っ気もない接客。何度も通ったが、店主と話したことはない。顔の見えないカレー店の顔はドライカレーそのものだった。

 しっとりとしたドライカレー。唯一無二の作品である。「濃縮」というプロセスのもたらす効果をあの味から学んだ。香りは入るより抜けていった。

 程よく酸っぱいホットソース。酸味と辛味が拍子の強弱を生む。極めて音楽的でクセになり、止められなくなった。

 飾りにならないドライハーブ。なくてもいいんじゃないか、と思えるが、「あってもいいじゃないか!と無言の反論が聞こえる。

 コーヒーに数滴のブランデー。これがハイチのスタイルかー、だなんて悦に入っていたあの頃。僕はいまだにハイチ共和国を訪れたことがない。

 年季の入った椅子とテーブル。ずっと座っていたかったが、そんな余裕はなく、食べ終わればそそくさと退店することにしていた

 雰囲気を邪魔しない背景音楽。BGMのことは覚えていない。それどころか、今はなき西新宿本店のあれこれを僕はあまりよく覚えていない。

 それでも僅かな記憶の全てがかけがえのない要素だったような気がして、「好きだったなぁ」と懐かしんでいる。

この記事をシェアする