吒枳尼眞天とは

名店に捧ぐ、神様カレー

文・水野仁輔

 上京して初めて訪れたインド料理店が麹町『アジャンタ』だったことは、幸運なことだと思う日本を代表する老舗インド料理店親戚のおじさんが連れて行ってくれた。何を食べたかは覚えていないが、それなりに通うようになり、いつしか注文するメニューがキーマとマトンに定まった。

 ふわりとしたドライキーマとしっとり濃厚なマトン。どちらも香り高く、ビシッと辛い。ごはんにドバッと盛り、交互に、または混ぜながら口に運ぶ。卓上にあるオニオンピクルスをアクセントに一気に食べ、水をごくごくと飲み干すのが気持ちいい。

 創業60年を超えるこの味は全国各地に伝播している。ここで働いた人々が自分の店を構えているからだ。これまた幸運にも彼らと交流を深めてきた僕は、すでにこのキーマもマトンも作り方は把握できている。それでもここを含め、流れを汲む店たちを訪れのが好きだ。

 どの店のカレーも独自解釈に立脚していて、具合が微妙に違っている。“本当の味”を求めるような野暮は無用本店の味ですら、昔と今は違って感じるのだから。連綿と受け継がれる2つのメニューに個別の物語絡まり、姿を変える。

 指揮者によって演奏が変わるオーケストラを鑑賞するように、各店へ足を運ぶのが楽しい。元の楽譜は持っているのだから、いつか自分で指揮台に立ってみたくなる日が来るかもしれない。今のところその予感がないのは、子や孫たちのマトンとキーマが僕を満足させてくれるからだろう。

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