小説
『夏の幻』睡蓮、外伝
『夏の幻』睡蓮、外伝
代沢稲荷近くにかつて井の頭線池ノ上駅の駅名の由来となった池がありました。作家横光利一の『睡蓮』はこの池から着想したと言われています。『夏の幻』はこの地を舞台とした百年程前の激動の時代を生きた人々の物語です。
昭和二年 大暑⑤〜屋敷
朔之介と琴は池から続く泥濘んだ道を歩いていた。三百メートルほど進むと椿の生垣に囲まれた屋敷が見えた。屋敷は勾配の緩やかな坂道を登ったところに建っていて、赤い鳥居の上部が生垣から顔を覗かせていた。建物の杉壁と白銀の瓦は夕日を浴び橙色に染まっていた。とりわけ正面の鬼瓦が一際大きく輝いて見えた。
門限が過ぎていたので、門は閉まっていた。二人はくぐり戸を開けて邸内に入った。門被りの赤松の株元に洗い場があり、そこに釣り竿を置いた。「洗いましょうか」と琴に言われたが朔之介は「僕が洗います」と断った。遊んで汚したものは自分で綺麗にしないと気が済まない性分だった。井戸のポンプを上下に動かすと、ごぼごぼと水が流れ出た。竿についている泥が流れていった。ポンプにかかっていた雑巾で竿の水滴をさっと拭き取った。
玄関の引き戸を開けて家の中に入った。サンダルを三和土の上り框に脱いで上がった。待合室はガラス張りになっていて、中庭の笹が風で揺っているのが見えた。
長い廊下の突き当たりに納戸があり、その扉を開けて中に入った。そこは十畳ほどの大きさで縦に長く、電球を点けると窓のない部屋の壁に何本もの釣り竿が浮かびあがった。渓流用、磯釣り用、投げ釣り用と様々な釣り竿がコレクションのように掛かっていた。父、裕一郎のもので一番左側の竿だけを朔之介が使うことを許されていた。
朔之介は釣り竿を壁掛けに戻すと、風呂場に向かった。脱衣室には畳が敷かれていた。籐で編んだ大きな籠があり、そこに服を畳んで置いた。浴室との境に敷かれていた床板を通って、五右衛門風呂のお湯にちゃぼんと体を沈めたが、直ぐに出た。烏の行水だった。
廊下に出て、応接間に入った。蓄音機からドビュッシーの『月の光』が流れていた。ペルシャ絨毯の上には木製の丸テーブルと椅子が四脚おかれていた。その一脚に裕一郎が腰をかけていた。大島紬の紺色の着物から痩せ細った手が見えていた。翡翠色の水石を持ち、手の甲には青筋が浮かび上がっていた。その色は池の色に似ていた。落ち窪んだ眼窩に浮いた眼球でじっとそれを眺めていた。朔之介は父親の姿をみると「ただいま帰りました」と会釈した。裕一郎はチラッと息子の姿を見ると、何かぼそぼそと呟いたが、朔之介は聞き取ることができなかった。聞き返すと面倒なことになると経験上わかっていたので「はい、わかりました」とだけ答えた。想像するに帰りが遅くなったことを咎めたのだろう。母智子が不在のときは門限はあってなかったようなものだった。
裕一郎は白い顎髭を左手で伸ばしながら、黙ったまま頷いた。特に答えを求めているのではなく、従順に挨拶ができるのかだけしか興味がないのはわかっていた。裕一郎はまだ四十歳になったばかりだったが年齢よりもかなり老け込んでいた。還暦を過ぎている風貌で額には深い皺が走り、頬がこけていた。二人が並んでいる姿を見れば多くの人間は祖父と孫に見えるだろう。
朔之介は縁側に出て、ブリキ製の飼育箱の蓋を開けた。蓋はガラスでできていて、木製の取っ手がついていた。覗き込むと櫟木の切り株にカブトムシが乗っていた。切り株ごと、カブトムシを取り出した。おがくずの中に手を入れて、隠れていたノコギリクワガタも取り出して、カブトムシと向かい合わせに切り株に乗せた。しばらく経つと戦いが始まった。カブトムシは角をクワガタのハサミの間に入れようとして、クワガタはカブトムシの頭を狙ってハサミを入れようとした。ハサミの下に角を入れるとクワガタはそのまま落ちた。
縁側から庭を見ると夜の帳が下りていた。庭はしんとした静寂に包まれていた。
「お食事ができました」と琴の母、澄が声をかけた。朔之介は「はい」と返事するとクワガタとカブトムシを飼育箱に戻した。朔之介と琴の帰りが遅く、そのタイミングを測っていたのだろう。澄は女中としてこの家に来て以来、朔之介の母、智子が不在のときは朔之介の帰りを待っての食事を用意することが多かった。智子は、裕一郎が体を患って以来、代わりに外出する機会が増えていた。
裕一郎は黙ったまま腰をあげて廊下に出た。澄が居間の障子を開けると、覚束ない足取りで入った。二十畳ほどの広さで、沖縄から取り寄せた琉球畳が敷き詰められていた。朱塗りの食卓の上には夕食の料理が並んでいた。南瓜の煮物と鯵の刺身、胡瓜と茄子の漬物が置かれていた。白米と豆腐と茗荷の味噌汁が仄かなゆげと香りを立てていた。
朔之介の弟たちが先に着席していた。次男の正男、長女の文子、末っ子の秀雄が今にも食いつきたくなるのを我慢して待っていた。裕一郎の姿を見ると兄弟四人が同時に軽く会釈した。裕一郎は軽く手を上げると、席に着いた。朔之介が姿勢をただし「いただきます」と手を合わせると兄弟も口を揃えた。
澄が裕一郎のお猪口に御酌をするとすぐに口元に運び飲み干した。
「今日は鯵のお刺身が入りましたので、ご用意いたしました」
「魚春か?」
「はい、そうでございます」
「店主はどうしてる?」
「なんでもお身体を壊されたようで最近は息子さんがお店に立っています」
「そうか……」
鯵の刺身に山葵をのせ、醤油をつけると口元に運んだ。手酌で酒をお猪口に入れるとグイッと飲み干した。二杯、三杯と続いた。
「もう少しゆっくり召し上がった方がよろしいかと思います。その飲み方ですと、お身体に障ります」
裕一郎はギロリと眼を見開いて、澄を睨つけ、空になった徳利を手渡した。澄は目を合わせずに小さく頭を下げると、受け取った徳利を持ったまま台所に戻った。再び持ってきた徳利をあっという間に空にすると裕一郎は席を立った。ふらついた足取りで、部屋を出て行った。眼光だけは鋭かった。そのバランスの悪さがまたみんなを緊張させた。
兄弟たちは軽く一礼した。出て行く姿を確認すると、朔之介が「ご馳走様でした」と手を合わせた。皆、おしゃべりをしながら居間を出た。
ボーンボーンと八時を告げる時計の音が廷内に響き渡った。就寝の時間だった。