小説
『夏の幻』睡蓮、外伝
『夏の幻』睡蓮、外伝
代沢稲荷近くにかつて井の頭線池ノ上駅の駅名の由来となった池がありました。作家横光利一の『睡蓮』はこの池から着想したと言われています。『夏の幻』はこの地を舞台とした百年程前の激動の時代を生きた人々の物語です。
昭和二年 大暑⑥〜水虎(かわたろう)
障子が半ば開いたままだった。二十畳ほどの和室には、青い蚊帳が三つ、風もないのに淡く揺れている。手前の蚊帳では、正男が浴衣をはだけ、敷布団から足を投げ出して小さな寝息を立てていた。奥の蚊帳では秀雄と文子がぐっすり眠っている。寝息はほとんど聞こえず、浴衣の腹が静かに上下していた。
朔之介は蚊帳には入らず、そっと縁側に腰を下ろした。夜の闇の向こうからは蛙の合唱が絶え間なく響き、その合間に水鶏がひと声鳴く。その音に耳を澄ませるうち、池の様子がふと気になった。昼間に見た、落雷で裂けた樹木の映像が頭をよぎった。
浴衣のまま玄関へ向かい、裸足にサンダルをつっかけて扉に手をかけたそのとき、廊下の奥、女中部屋の障子がすっと開き、琴が顔をのぞかせた。眠たげに目をこすりながら、琴が首をかしげる。
「こんな時間に、どちらへ?」
「池の様子を、ちょっと見に行きたくて」
朔之介が答えると、琴は一瞬考え、ゆっくり頷いた。
「一緒に行く?」
眠気の残る掠れた声だったが、気さくな響きがあった。
琴は「行きます」と小さく言うと、部屋の隅の木箱から古い懐中電灯を取り出した。銀色のブリキ製で、「FLASH LIGHT」とかすれた欧文が刻まれている。レバーを押すとジリ、と音を立てて豆球が灯り、黄色い光が揺れた。にこりと微笑んで三和土に降り、サンダルを履いた。
「澄さんは?」
「ぐっすり寝ています」
「ご主人様のお相手で疲れたんだと思いますよ」
琴はくすっと笑うと、朔之介もつられて笑った。
「髭をこうやって触られると、もう体が凍るみたいで」
と、顎の下に手を当て、その手をゆっくり上下させて裕一郎の物真似をした。琴が楽しげに笑った。
「でも、どうして急に池へ?」
「なんとなく、気になって」
朔之介が言うと、琴は理由がわかるようなわからないような表情で懐中電灯を掲げた。
二人は静まり返った屋敷を抜け、夜気の冷たさを肩に受けながら池へ向かった。街灯はなく、足元は心もとない。頼りになるのは懐中電灯と月明かりだけだった。頬を撫でる夜風が心地よい。数分歩くと、蛙の声はいっそう強まった。
池が見えた。水面は有明月の細い光を受け、さざなみの先だけが硝子片のようにちらちらと光っている。
「なんだか肝試しみたいですね。去年のこと、覚えています?」
琴の言う“去年”とは、友人たちと池の奥で行った肝試しのことだった。雑木林の小山にぽっかりと口を開けた洞穴に宝物(と言ってもビー玉やメンコだったが)を入れておき、夜に取りに行く。泥濘で足を取られ、叫び声と笑い声が入り混じった夜だった。
そんな話を思い出しながら足を進めると、湿った土の匂いが濃くなり、草むらの影が深く重なっていく。
池へ続く細い道は、薄い月明かりに縁だけを拾われ、かすかに銀色の輪郭を帯びていた。
その先に、黒々とした倒木が横たわっていた。昼間に落雷を受け、幹の裂け目は炭のように焦げ、まだどこか生々しい。不思議なことに、倒木の周囲がうっすら白く揺れている。
草の先が湿気を含んでしっとりと重く、池から上がる夜気が霧のように漂っているのかもしれない。だが、その揺らぎは風もないのに一定のリズムを刻み、まるで倒木そのものが息をしているようにも見えた。
「あれ?」
琴が小さくつぶやいた瞬間だった。霧の奥、倒木の陰に、何かが立っていた。月光が届かない場所のはずなのに、その輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。人影より低い。ぬめりのある緑色の光沢が、霧に溶けるように揺れた。
琴が朔之介の手をぎゅっと握った。その指先がかすかに震えているのが伝わる。
影は二人に気づくと、草を踏む音もなく倒木から池へ駆け下りた。湿った苔を踏む気配だけが、わずかに空気を揺らした。
水面近くで一瞬だけ振り向いた。人のようで、蛙のようで、緑の滑った皮膚に、月の光が薄く反射していた。背丈は五歳児ほど。昼に見た雷神風神の様相とも違っている。そのまま池に飛び込み、ザブン、と大きな飛沫を上げた。波紋が広がり、月の影を大きく歪めた。
二人は草をかき分けるようにして水際へ駆け寄った。濡れた草が足首に絡みつき、ひやりとした。
「今の見たよね?」
「ええ、たしかに」
言葉を交わしたその刹那。
バシャッ。
静かな水面が破られ、膜の張った手が伸びて琴の足首を掴んだ。冷たい水滴が弾け、琴の悲鳴が短く夜気に溶けた。
琴は朔之介の手をしっかり握っていたが、その力はぬめりに滑るように離れ、琴の身体は水の中へ吸い込まれるように消えた。
「琴ちゃん!!」
朔之介は叫び、ためらわず池へ飛び込んだ。水は想像以上に冷たく、夏の夜とは思えないほど深く冷え込んでいた。
手探りで潜っても、指先には藻と泥の感触しか返ってこない。琴の姿はどこにもない。
水面には、欠けかけた月の輪郭が揺らぎながら映り、それが波に砕かれながらゆっくりと形を戻していく。
一分、二分、三分‥‥‥
蛙の声さえ止んだように感じられた。時間だけが冷たい水の中を流れていった。朔之介はただ立ち尽くし、どうしていいか分からなかった。胸の奥で鼓動だけが妙に大きく響き、周囲の景色が音を失っていく。
足元の水面がふるりと揺れた。
バシャッ。
琴が水面から顔を出した。髪に絡んだ藻が月を受けて光り、その肩は激しく震えていた。泣きじゃくりながら朔之介にしがみついてきた。体温を奪われた身体は水温と同じように冷たかった。
琴の肩越しに見える欠けた月の暗い縁が、微かに笑みを浮かべているように見えた。






